山小屋管理人Sさんのこと

山梨県の大菩薩峠の山小屋の管理人をしていたSさんと私の出会いは、何と通勤途中の車の中だったの
です。
当時私は川崎市北部の自宅から東京立川市の会社までマイカー通勤をしていました。
車の中にはアマチュア無線機が積んであり、いつも仲間との交信を楽しみながら渋滞も退屈することなく
通勤していました。 そんなある日、山梨県から強力な電波が飛び込んできました。山梨県から
無線機のメーターが振り切れる程の、この電波はきっと誰かのいたずらに違いないと思い無視していまし
た。
なおも執拗に呼びかけてくるので、応答して話を聞いて見ると、大菩薩峠の山小屋から送信との事で
納得しました。それからは私も山が好きなため意気投合してSさんと交信する日々が続きました。
通勤途中の車の中で生の山の便りが聞けるとあって、私の通勤タイムは一段と楽しいものになりました。
そして一度Sさんの山小屋を訪問するという約束を取り交わしました。私がSさんになにか持って行くものは
ないですか?と尋ねたら、ラジカセと横浜の崎陽軒のシュウマイ、テレビガイドをお願いします、と言うことで
私は冬の大菩薩峠を目指したのです。

時は2月、このあたりの山域では積雪が一番多い時です。コースは一番楽な裂石からのコースでは芸がな
いと言う事で小菅から登ることにしました。  自宅を早朝出発しても日没までの到着は無理と判断して前日
に奥多摩駅そばの氷川山荘に泊まり一番バスで小菅へと向かいました。小菅からしばらくは単調な林道で
退屈しましたが白糸の滝あたりから山道になり、登りも急で雪もかなりあり苦労しました。このコースを選択
した事を後悔しても後の祭りでした。しかし明快な目的(ラジカセを届ける)があるというのは何故か頑張れる
もので何とかフルコンバ小屋まで到着する事ができました。
ここでSさんに無線交信で無事到着を告げ、最後の登りを頑張りました。
やっとの思いで稜線に出ると、そこにはSさんのこぼれるような笑顔がありました。
私の荷物を見てひとこと「こんな重い荷物を持って大変だったね、裂石から来れば雪も少なくて楽だったの
に」Sさんの一言が身にしみて反省しきりの私でした。

その後機会ある事に大菩薩峠への訪問は続きました。
私がSさんと知り合ってから、何度目かの冬、友人を誘って南大菩薩の縦走をして峠を目指そうという
プランを立てました。中央線の初鹿野駅(現在の甲斐大和駅)から田野と言う所まで行き民宿に一泊してか
ら峠を目指しました。民宿の人の話では雪も少ないと言う事で、余裕で夕方前に峠に到着すると踏んでいま
した。
最初のうちは林道歩きでしたが振返ると富士が美しく、幸せな気分で山を歩いていました。
湯ノ沢峠で稜線に出ると状況は一変して急に雪が多くなりました。その時は、このあたりは北面なので雪が
多いのだなと軽く考えていました。しかし歩くたびに雪は深くなり、ついに腰までのラッセルが必要がなほど
の積雪になってきました。歩いても、歩いても歩は進まず、本当に苦しい道でした。
但しルートは絶対外さないようにと言うことで、アップダウンがあり苦しかったのですが、稜線を忠実に歩く事
だけは守りました。牛奥雁ケ原摺山の手前ですでに時は午後8時を回り、疲労もピークに達していた為つい
にビバークを決意しました。峠のSさんとは山が邪魔して交信不能の為、甲府盆地のアマチュア局に中継し
てもらい雪が深くて到着出来ないのでビバークする旨伝えて頂きました。Sさんはこれから迎えに行くと言っ
てくれましたが、心配いらないと言う事で丁重にお断りしました。余談ですが、この無線交信中にイタズラの
妨害電波出す人がいました。甲府盆地の局の方がそれを真剣に怒ってくれて「雪山で凍えるような寒さのな
かにいる人の事を考えたらどうだ! お前はそれでも人間か! 」の言葉を聞いた時は思わず涙が出てしまい
ました。

雪に穴を掘り上にポンチョをかぶせただけの簡単な雪穴に友人と二人入って朝を待ちました。
長い長い夜でした。寝袋等なかったので寝てしまえば凍死してしまうので一睡もしないまま夜が明けるのを
待ちました。雪穴の中で考えた事は、このピンチを切り抜けて家に帰ったらコタツにあたりながらミカンを
食べたいなぁ等たわいも無いことを思っていました。空が白んで来た時は本当に嬉しかったのを今でも良く
覚えています。疲れた身体にムチ打って私達はまた、腰までのラッセルを続けました。
しばらく歩くと「Yくーん」と私を呼ぶ声が山のかなたから聞こえてきました。心配したSさんが迎えに来てくれ
たのでした。昨日の無線では完全装備だから心配いりませんと言ったのに、私達は軽装でした。
これを見たSさんのカミナリが落ちるのは覚悟の上でしだが、それでも嬉しくて今までの苦労が吹き飛ぶ感じ
でした。しばらくして縦走路でSさんとご対面Sさんいわく「この深い雪の中、いったいどちらへお出かけです
か?」
笑顔がこぼれていました。後でご本人に聞いた話では深い雪の中をラッセルしてくる私達とその後ろに何処
までも続くトレールを見たら、とても怒る気にはなれなかったそうです。

その後もSさんとの交流は続きましたが、Sさんが結婚して子供が出来てから山を降りたので、あまりお会い
する機会はなくなりました。

そして、しばらくの後私が南アルプスの塩見岳から北岳へ縦走した時の事です。
熊の平小屋の朝食が3時半と早かった為4時には小屋を出て間ノ岳へと向かいました。ちょうど三峰岳の手
前にさしかかった所で、黎明の空にシルエットを浮かべる富士の姿を見て急に富士山に登りたくなりました。
それまでは富士山は老後の楽しみに取って置くとか言いつつ、まったく登ろうと思った事すらないのですから
本当に不思議でした。そして1週間後私は富士山に登ったのです。

私が富士山から帰ってすぐSさんの奥さんから手紙が届きました。文面を見て驚きました。
Sさん夫婦が富士登山に出かけた際、Sさんが落石に合い亡くなったと書いてありました。
それは丁度私が南アルプスで富士を見た日の何日か前のことのようです。
下山途中に靴ひもがゆるみ、登山道から外れた所で紐を締めなおしている所を落石が直撃したようです。

当時私が住んでいた多摩ニュータウンの高台から見える夕焼けの富士に、{私が小屋から帰る時間が近づ
くと急に忙しそうに仕事を始めるSさんの姿、Sさん、この鳥は何ですかと聞いたときに、それは君のサイフだ
よ(しじゅうから)と言って笑った笑顔」がオーパーラップして目頭が熱くなりました。
ご冥福をお祈りします。